ショートストーリー 「アインシュタインの脳」〔Recipe003〕
「こちらがアインシュタインの脳です!」
司会者が高らかに宣言すると、聴衆が盛大な拍手で応えた。壇上の円筒形の水槽の中に電極につながれた脳らしきものが見える。
「最新の医療技術を駆使して、残されていた脳細胞から脳全体を再生することに成功しました。さぁ、天才が二百年の眠りから目を覚ます瞬間です! みなさんは歴史の目撃者になるのです!」
プ、プ、プ、と機械的な音がして、しばらくするとスピーカーから声が聞こえてくる。
「ふわぁああ…。いま何時だい?」
「こんにちは。あなたのお名前は?」
「アルバート・アインシュタイン。私の担当医はどこに行った?」
「みなさん、お聞きになりましたか? 大成功です!」
大歓声がホールを揺らす。
「ここはどこだね?」
「セントシティーホールです」
「プリンストン病院じゃないのか?」
「すばらしい! アインシュタイン博士はプリンストン病院で亡くなったのです!」
歓声が沸き上がり、アインシュタインの声がかき消される。
「お静かに、お静かに。博士がお話されます」
「私が死んだって?」
「えぇ、アインシュタイン博士。驚かれるでしょうが、あなたは1955年4月18日に亡くなりました。そしていま、あなたの脳は最先端の再生医療によって蘇ったのです!」
「今は何年?」
「2155年です」
「なんてこった! 二百年もたっている」
「そうです! 没後二百年の記念すべき年に復活をとげたのです!」
アインシュタインの脳は深いため息をつく。
「こうなるのが嫌だったから死後は散骨してくれと頼んだのに。何が起きたんだ?」
「トーマス・ハーヴィーがあなたの脳をホルマリン漬けにして持ち帰ったのが、すべての始まりでした。脳のかけらがなければ復活はありえなかった」
「ハーヴィー? 誰だ?」
「解剖を担当した病理学者です」
「余計なことをしやがって。そいつを呼んでこい!」
「残念ですが、2007年に亡くなりました」
ため息をつくアインシュタイン。そんなことはお構いなく司会者は話し続ける。
「それでは改めてお祝いしましょう。おめでとうございます、アインシュタイン博士! あなたは永遠の命を手に入れたのです!」
アインシュタインの脳の多忙な日々が始まった。噂を聞いて世界中から難問が集まってくる。次から次へと解決を迫られる日々が一年以上続き、謎の頭痛に悩まされるようになった。
「少し休ませてくれ」
「毎日8時間はお休みいただいてます」
「頭が割れるように痛い」
「脳波に問題はありません。活性酸素は除去しておりますし、栄養状態も管理され、最も心地よい状態に保たれております」
「私はもっと人間らしい生活をしたいんだ」
「と、いいますと?」
「脳の細胞を使って、私の体を再生したい」
「そこまでは、今の技術ではできません」
「私を誰だと思っている」
「…失礼しました。必要な機材やスタッフを揃えましょう」
数年後、ついに研究は完成した。
「気分はいかがでしょうか」
「悪くない。体を動かしたら長年の疲れも消えたようだ。座って仕事ばかりしては疲労が取れないのだ。脳とは不思議なものだな」
体は若者のように軽やかで、頭もすっきりしている。アインシュタインは第二の人生を謳歌した。
ある日、日課のランニングをしていたアインシュタインはスパイに拳銃をつきつけられる。後ろから殴られて意識を失い、次に気づいた時には窓のない堅牢な建物の中にいた。ドアについた小窓から外を覗くと銃をもった兵士がずらりと並んでいる。
「ここはどこだ」
「どこでもいい。お前はここで一生働くのだ」
自由は長くは続かなかった。
アインシュタインを奪われた先進諸国は残された脳のかけらを使ってアインシュタイン2号を作り出した。それからは拉致と再生の繰り返し。あっという間に天才のクローンが世界中の紛争地域で監禁されるようになる。
アインシュタインは自分を監禁する者たちに懇願する。
「こんな生活は耐えられない。最初に起こされてからもう百年経った。そろそろ死なせてもらえないだろうか」
「そんなわけにはいきません、あなたにはもっと働いてもらわなければ。破壊力の強い新しい武器を作るのです」
同じことが世界中の紛争地域で起きた。アインシュタインたちは絶望する。
「流れ弾に当たったら死ねるかもしれない。この地獄から抜け出すには、武器をどんどん作るしかない…」
世界各地のアインシュタインは天才的な兵器を次々と開発した。戦争はエスカレートして、たくさんの人間が死んだ。
数名のアインシュタインたちは望み通り流れ弾に当たって死ぬことができた。しかし、死体からすぐに新しいアインシュタインが作られてしまう。
「あぁ、いつになったら静かに休めるんだ」
そのころ、小さな島国にノーベル賞を期待される天才研究者がいた。資源のないこの国を世界のトップに躍進させるだけの力を持つ科学者だったが、ある時からきっぱりと研究をやめてしまった。彼は思いつく限りの誹謗中傷を受けた。国の期待を背負うとは、そういうことだ。
小さな畑で農作物を作る彼の姿に、往年の科学者の面影はない。
あるとき彼の居場所をつきとめた記者がやってきて質問した。
「どうして研究をやめてしまったのですか?」
「ノーベル賞なんてとったら、永遠に働かされるじゃないか。アインシュタインみたいになるのはごめんだね。研究は自分のペースでやるから楽しいんだ。そうだろ?」
木陰で気持ち良さそうに風を感じている元科学者を見ながら記者は思わずつぶやく。
「天才が才能を生かせないなんて、残念な世の中になったものだ」
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